水面からつきでた白い腕を、沖田はまるでつくりもののようだと思った。
この高校で一番施設が整えられている場所は温室プールだ。沖田は特に水泳の授業を好んでいるわけでもなかったが、一年中あたたかい中でプールに入れるのは得だとは思う。この湿った空間と妙な暖かさが彼は好きで、放課後にふらりと立ち寄ることがあった。水泳部が使用する日以外は一般開放されていたが、真冬にわざわざプールへ入る物好きなどいるはずがない。
世界から遮断された空間のようだと沖田は思う。水しぶきの音が、響き渡る。美しいフォームは何往復しても崩れることない。水泳部員の自主練習かと思ってぼんやりと眺めていたので、その女性がクラスメイトであるとわかったとき、沖田は少し驚いてしまった。
陸奥の泳ぎ方は、練習や趣味などとは程遠いもので、それよりはむしろ罰則や懺悔に近いものを感じた。何故ひたすら泳ぎ続けているのか聞きたくなったが、沖田は自分がそれを尋ねないだろうということをすでに知っている。
その後2往復すると、陸奥は泳ぐのをやめた。水の中で立ったまま動くことはなかったが、視線に沖田をとらえると、水中から出てくる。ひとつに束ねていた髪をほどき、彼の方へ近寄った。陸奥の身体からは水滴が絶え間なくたれている。
「何しちょる」
「冬のプールには、変なもんがあらわれるって相場が決まってるんでさァ」
沖田がそういったあとも、陸奥はゴーグルもとらずにじっと彼をとらえ続ける。前髪が額にはりついていた。黒い透明なゴーグルには、歪んだ沖田がうつる。彼が彼女に冗談は通じないのだと思い出したのは、自らの足に、陸奥から滴る水滴が侵食しはじめたころだった。
「冗談でさァ。ただ、暖をとりにきただけですぜ」
「プールに、暖を」
陸奥はそう呟くとしばらくじっと考え込んでいたが、納得がいったのか「そうか」とやっとゴーグルをはずした。大きな黒目が、沖田をとらえる。
「おんしは、おもしろいことを言うの」
「そうですかィ?俺からしたらあんたの方がユニークでさァ。真冬にプールなんて」
「日課じゃ」
日課だというので「毎日通ってるんですかィ?」と問えば陸奥は呆れたように「おまんには冗談が伝わらんのか。物の例えじゃき」と言う。沖田は心外だと思いながらもその抗議を口にすることはなかった。揺れる水面、ボイラーの音、マネキンのような白い腕。沖田はつい、耳を塞ぎたくなってしまう。




自分のクラスの教室を出ると、また子は勢いよく階段をかけあがる。2階から3階へ。階段をのぼりきり3年生フロアにたどりつくと、今度は右にまがりつきあたりまで歩く。何度も通いすぎて、目をつぶってでもそこへたどりつけるような気がした。3年Z組の教室まで歩くとき、また子は何もかもが自分に味方しているような錯覚におちいる。そしてそれと同時に、全てに見放されているようなかなしい気持ちにもなるのだ。きっとこれを、人は恋とよぶのだろう。
教室のドアを思い切り開ける。放課後なのでおそらく誰もいないだろうとふんでいたのだが、そこには高杉の幼馴染の桂がいた。少し驚きながら何しているのかと聞けば高杉を待っているという。借りていた本を置いてすぐに帰るつもりだったが、せっかくなので一緒に待つことにした。また子が何も言わずに桂の隣に座っても、彼は探るような目をしたり不要な言葉を発し彼女を困らせたりしない。
桂は男らしくない細い指で、鶴を折っていた。他にもきりんや象など、たくさんの動物が桂の手のまわりを彩っている。
「動物園みたいっス」
「晋助が喜ぶんだ」
桂は顔をあげ、また子へにこりと笑ってから、再び視線を自分の手元に落とした。こういう桂の心遣いを、また子は好いている。彼女もにっこり笑い、自らも折り紙に手を伸ばした。幼い頃、祖母に言われたことを思い出す。愛情をこめて折れば、素敵な鶴ができる、と。また子は鶴があまり好きではなかったが、高杉のために全身の愛情をこめて鶴を折った。しかし、彼女のつくった鶴は桂のそれとは随分違ってしまう。不恰好な鶴。愛情が足りないのかもしれない、とかなしくなる。そして、桂に対して少しだけ嫉妬した。
「あんた、晋助先輩のこと、好きなんスね」
桂は心外だといいたそうな顔をしてまた子をみつめる。
「当然だろう」




数学準備室のドアをノックする自分を、妙はどこか遠くから眺めている心持ちでいた。自分が信じられない。「どうぞー」ああ、何で在室なのだろうか。自ら訪ねたけれど、妙は坂本を心のどこかで呪う。
「志村姉!めずらしいのう」
坂本は溢れんばかりの笑顔で妙を迎え入れ、椅子に座らせる。そんなに関わっている生徒ではなかったが、妙がいつもと少し様子が違うということを、坂本はすぐに察した。以前陸奥が置いていった暖かいココアをいれ、妙に手渡す。ありがとうございます、と妙は受け取るが、口にしようとはしなかった。
「何かあったが?」
坂本はすでにぬるくなった日本茶を飲み干し、湯のみを机の上においた。机の上には教科書や資料とともに、たくさんの写真が飾られていた。妙が見知った顔もいるし、知らない人間もたくさんいる。見れば壁にもべたべたと写真やら地図やら手紙やらが貼られていて、やはり妙は坂本と自分を呪った。ここは、彼女には眩しくて優しくて、つらい場所だ。
坂本が妙の言葉を待っているのがひしひしと伝わってくる。それを無視することができない自分の性格に嫌気がさした。それでも、普段の彼女なら、なんでもないです、とにこり微笑んで終わらせることもできたが、今日の彼女にはそれすら難しい。
「…犬が、轢かれていたんです」
学校でてすぐの、十字路のところです、駄菓子屋さんの手前。妙はぽつぽつと続ける。彼女の口から出た言葉はこの部屋では明らかに浮いてしまっていた。所在を失い、外に出ることもできず、どんどんと溜まっていく。
「血がたくさんでていて、ああ、かわいそうだなって、思ったんですけど、でもどこかで、私、嫌だなあって、思ってしまったんです」
坂本は何も言わず妙の独白を聞く。坂本が口を挟まないであろうことを、妙は予測していたが、それでも途中で話が途切れないようにすぐに続けた。話が切れると、きっと彼女は真実を語れなくなるだろう。
「それで、私、結局何もしなかった。しなかったし、できなかった。そのまま無視して帰ろうとしちゃったんです。そこで我にかえって、こんなこと考えてしまった自分にぞっとして、こうして学校に戻ってきちゃったの。私、最低ですよね。醜いのに偽善者で、良心が欠如している、嫌な子」
じんわり、と滲む涙でさえ、妙は呪った。何もしない、できない自分の愚かさと無力さが悔しいと思う。自分は坂本に何を言ってほしいのだろうか。きっと困らせているのだろう。それでも妙は、とびきり甘やかしてほしかった。彼女はまだ、子どもなのだ。
「志村は、えい子じゃのう」
坂本はにっこりと笑い、妙の頭を撫でた。妙の目から、涙がぽろぽろとこぼれる。
「誰か、私のかわりにいい人がお墓つくってあげたと思いますか?」
「わからん。おまんが落ち着いたら、わしと見に行くぜよ。まだひとりだったらかわいそうじゃ」
大人はすごいと妙は思う。とびきり甘やかして、でも逃げることを許さない。早く十字路へ見に行きたいと思った。先ほど妙が発し、行き場をなくした言葉たちと、そして自分自身を解放したい。そう思った直後、妙はまた自らの自分本位な考えにぞっとしてしまう。私は、きっと大人にはなれない。妙の目から落ちた涙は、ぬるくなりはじめたココアの中におちた。




「どうぞ」
新八は九兵衛にキャンディーを手渡す。九兵衛は勉強をすすめる手を休め、ありがとう、と受け取った。新八はにっこり笑って、再び自分の席へ戻る。そのまま計算機を片手に資料とにらめっこをはじめた。
「そよちゃん、遅いな」
「そうですね。今日の面談は吹奏楽部と剣道部と天文部だから、すぐ終わると思ったんだけどなあ。銀八先生が余計な口出ししてるのかも」
そよは面談にいくとき、先に帰っていてください、と笑顔で生徒会室を出て行った。それに新八は笑顔で、待っているから頑張ってね、と返していた。九兵衛はどちらでもよかったので新八と一緒にそよを待っている。会計の新八と違い、特にやることがない九兵衛は、窓の外に広がる空をぼんやりと眺めていた。生徒会室から見える空が、九兵衛は好きなのだ。もらったばかりのキャンディーを口に含む。あまい、イチゴの味がした。
九兵衛は立ち上がり、窓際にたつ。誰もいない校庭を眺めようと思ったが、隅のほうに人がいた。少し期待はずれだと思いながら、今度は生徒会室を見渡す。新八は書類と向き合いっぱなしだ。本棚にはたくさんの資料が並べられ、壁にはそよの綺麗な字で全校目標が掲げられている。
気がついたら生徒会に入っていた。しかし華やかさなど全くなく、ほとんどが地味な目立たない作業だ。だからこそ大変そうだと思ったが、そよや新八がしっかりしているので、自分に負担はほとんどまわってこない。こんなんでいいものか、と九兵衛は不安になってしまう。
しかし、新八やそよは、九兵衛が頑張ろうと努力していることを知っている。九兵衛が、二人の頑張りを知っているように。
「新八くん、提案があるんだが」
「何ですか?」
「そよちゃんが帰ってきたら、先生もいれて甘いものでも食べにいかないか?」
新八は意外そうな表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうににっこりと微笑む。笑ったときの顔が、妙にそっくりだと九兵衛は思った。
「いいですね。先生にご馳走してもらいましょう」




土方は沖田を探し、校内を歩いていた。すでに30分近く歩いているが、どこにも見当たらない。寒がりの沖田は、冬に限りさぼり場所を屋上から変更してしまう。沖田の冬眠場所を、土方は3年かけても突き止めることができなかった。
「おい、多串くん。ちょっと顔かせヨな」
高い声に呼ばれて振り返ったが、土方は顔を歪めてしまう。神楽の白いセーターはひどく汚れていた。土やらおそらく血やらがついていて、童顔の彼女とのアンバランスさが気持ち悪い。どうしたのかと聞くと、神楽は何も言わずに土方の腕をひいた。
「犬が死んでたアル」
しばらく無言で歩き続け、土方が声をかけるかどうか迷いはじめた頃、神楽はやっと立ち止まり、口を開いた。校庭のすみは、日が当たらなく、とても寒い。
「学校出てすぐの十字路のとこヨ。車に轢かれたんだと思うネ。血がいっぱい出てたし。でももう冷たくなっていて、どうしようもなかったからとにかく学校に連れて帰ってきて、それで、そこに埋めたの」
神楽は饒舌だ。言い訳する子どものように、どんどんどんどん言葉が溢れている。ぎゅう、と握られた手は土と犬の血で汚れていた。まるで懺悔のようだなと土方は思う。気の利いた言葉はかけるつもりはない。おそらく、彼女は聞いてほしいだけなのだ。赦してほしいわけではない。そして、その相手は誰でもよかったのだろう。
「煙草、ちょうだい」
神楽はそういうと、土方の返事も聞かずに彼のポケットに手を伸ばし、煙草とライターをとりだした。口にくわえ、なれない手つきで火をつけると、すぐに口からとりだしてしまう。そして、土が不自然に盛り上がった場所にそっとその煙草とキャンディーを置いた。線香と供え物のかわりのつもりなのだろう。手をあわせる神楽をみて、まるで子どものままごとのようだと土方は思った。この子どもは、葬式の真似までしてしまう。何も話さなくなってしまった神楽の肩を抱きしめてやるべきかとも考えたが、死体くさいのでやめた。かわりに、土方はそっと、手をあわせ、ままごとにくわわる。




ノートの切れ端でできた鶴は、不気味で高杉を心底ぞっとさせる。それも数多く並べられているとなると、気味の悪さは倍増した。高杉のその目線に気がついたのか、そよは、ごめんなさい、と謝り、すぐに鶴たちを集めた。
「天文部の前は剣道部との面談だったんですけど、沖田くんが書類を持ったままどこかへ行ってしまったらしくて。土方くんが探しにいってくれたんですけど、それきり帰ってこなくて…暇だったのでこんなに作ってしまいました」
そう言われてはじめて、高杉は自分も書類を忘れていたことに気がついた。顔に出ていたのだろうか、そよは微笑む。育ちのよさを感じさせる笑顔だ。
「大丈夫です。面談といっても形だけなんですよ。土方くんは真面目だから、探しにいってくれたんです」
「土方も馬鹿だな。それより銀八はどうした?あいつ生徒会の顧問だろ。信じられないけど」
「先ほど呼びにいったんですけど、寝てらっしゃったので。先生も、やりたくない顧問を引き受けてくださったんだもの。起こしてはわるいでしょう?」
そよはそう言うと、ノートに天文部と整った文字で書いた。高杉はそよの、品の良さと物腰の柔らかさを気に入っている。全身から、愛されて育ったことが伝わってくるのだ。
高杉はそよが端に寄せた鶴に手を伸ばす。一羽だけ掴むが、やはり気味がわるかった。
「何で鶴ばっか折ってんだよ。もっと他のもん折ればいいのに」
「恥ずかしい話なんですけど、鶴しか折れないんです」
高杉は驚いてそよの顔を見た。意外だったが、新鮮で、おもしろいと思う。先入観はおそろしい。生徒会のノートを一枚もらい、正方形にしてから高杉は折りはじめた。きりんに象にライオン。次々と出来ていく動物たちに、そよは、わあ、と目を輝かせている。
「お上手ですね」
「ヅラが得意なんだよ。昔から『動物園』ってつくってた」
「そうなんですか」
「でもあいつは『動物園』の中に鶴を絶対いれるんだぜ。考えられねえ」
「動物園にも、鶴はいますよ」
「違う、嫌がらせだよ。俺が折り紙の鶴苦手なんだ。不気味で」
そう言ってから、高杉は失敗したと思った。案の定、そよはかなしそうな顔をしている。高杉の視線に気がついてすぐにいつもの笑顔に戻すが、会話がとまってしまった。はあ、とため息をついて、高杉は少し笑う。
「鶴以外の動物の折り方、何が知りたい?」
そよは少し驚き、でもすぐに微笑む。そして控えめに、うさぎ、と言った。




「せんせい」
あやめの口から出た音は、宙へときえてゆく。彼女の口は、せんせい、という4文字を発するために存在しているのかのように美しかった。愛おしいものを言葉で表現しようとするとき、少女は何よりも美しくなる。机に突っ伏し寝息をたてる銀八の髪を夕焼けがあかく染めていた。真っ赤で、気持ちが悪いとあやめは思う。そっと手をのばし、髪にふれる。
「せんせい」
銀八は相変わらず眠り続けている。狸寝入りかもしれないしそうではないかもしれない。机の上には、煙草とチョコレートと、生徒会の資料。16:00〜面接 とかかれた付箋がライトに貼ってあったが、あやめは彼を起こさない。
「せんせいなんて、死んじゃえばいいのに」
あやめはやはり美しかった。銀八に聞こえているかもしれないし聞こえていないかもしれない。どちらでもかまわないとあやめは思う。ただ、聞こえてしまっていればいいのにと彼女は少しだけ願った。決着のときは近いのかもしれない。あやめは、昼間クラスメイトからもらったイチゴ味のキャンディーを机において、職員室を後にした。





(世界たち)
3Z掌編
沖田と陸奥,桂とまた子,坂本と妙,新八と九兵衛,土方と神楽,高杉とそよ,銀八とあやめ
2007.12.19
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めずらしいくみあわせ で!最後の銀ちゃんとさっちゃんだけ普通だ
不安定なとしごろ、彼らしかもてない、美しい世界たち