「ふと思ったの。もしかしたら私も、そのへんに溢れているトンマなおんなのこたちと、おんなじなんじゃないかって」
携帯電話から聞こえてくる涼宮ハルヒの声は、空気を薄く揺らし、ゆっくりと古泉の脳内をおかしていく。少なくとも、午前3時にいきなり電話をかけてくる少女が普通の女の子だとは、彼は思わなかったが、もちろんそれを口には出せない古泉は頭の中で彼女に適した言葉をさがす。
「涼宮さんは、とても理知的で魅力的な女性だと思います」
「そういうことじゃないのよ。別に私は利口な人間になりたいわけじゃないの」
ハルヒの声は、凛として透き通っていた。一本の細い糸がぴんと張り詰めたような、攻撃的で、排他的―おそらく彼女はこうやって、他をすべて否定することで自分を保っていたのだろう―な声は、古泉の意識を徐々にさましていく。寝転がったままだった身体を起こし、彼は涼宮ハルヒと向き合おうとする。
「ねえ、今から会えない?」
「‥これから、ですか?」
古泉はもう一度時計を確認する。午前3時。この時間に慣れていないわけではなかったが、それでも彼は戸惑ってしまう。深夜というぬるい波がうつような時間帯に、もうひとつの彼女と対峙する機会は数多存在したが、ほんものとのそれははじめてだ。本質的で肉体を持った涼宮ハルヒと向き合う、これは、古泉をひどく緊張させた。
「僕は構いませんが‥何にしろこんな時間です。危険ではないでしょうか」
「私なら大丈夫。公園で会いましょう」
「わかりました。それならご自宅まで迎えにいきます」
「古泉くん。あなた、私の家がどこにあるかなんて知らないでしょう?」
ふふ、とハルヒが電話越しでわらう。古泉はどきりとした。(彼女はもしかして、すべて知っているのではないか)重なり合うその感覚は、ひんやりとしていて、まるで頬をあの細い指でなでられたかのようだ。官能的で、おそろしい。彼が言葉をかえせないでいると、彼女は薄く微笑みながら言葉を続ける。
「それにね、実は今すでに外にいるのよ」



古泉が急いで準備をし、指定された公園に向かうと、ハルヒはぽつんとベンチに腰掛けていた。厚手のコートを羽織り、ジャージからはすらりとした美しい肌色がはみだしている。涼宮ハルヒのパンツ姿を見るのははじめてだな、と思いながら古泉は彼女へ近づく。素っ頓狂な格好をしたハルヒは、迷子になってしまったこどものように見える。だけど、彼女はまぎれもなく大人になろうとしているのだ。なまめかしい指先が、それを薄く暗示している。
「お待たせしました」
ゆっくりと顔をあげたハルヒの目は、じっとりと湿っていた。濡れたその球体は、少年のこころをとらえてはなさない。じわじわと、首をしめられているような感情が古泉の中に芽生えた。おそろしい人だと、彼はおもう。
「‥古泉くんは、こんな時間でも完璧なのね」
「完璧なものなど、この世にありませんよ」
「でも、パーフェクトだわ。服装も、髪型も、表情も」
彼女が誰のことを考えているのか、古泉はかなしくなるくらいはっきりわかってしまったが、彼は微笑んだままで何も問いかけない。ハルヒは彼の靴先をじいっとみつめていた。鋭角めに曲線を描き、最終的にぐるりとまわって古泉の足を包み込んでいる。それを、彼女は不思議そうに(でもどうってことなどないというかおで)、ただ、みていた。古泉は頭のなかで彼女に何を言うのがいちばん最適かを考えている。どこかで、ちらりと見えた彼女のうなじに、とらわれながら。
つるつるとして見える彼女の頬は、街灯に照らされている。あたりはひっそりとしていて、まるで二人だけが取り残されたようだった。もしくは、世界には最早涼宮ハルヒしか存在しておらず、古泉はたったひとり、彼女の最後の話し相手に残されたのかもしれない。そんなこと、妄想にすぎないのだけれど。それでも彼は、ハルヒの隣に腰掛けられないでいる。ベンチに腰掛け、世界をみたとき、すべてが崩れ去ってしまう気がしたのだ。


「世界のおわりを、みたことがある?」
ハルヒがぽつり、と呟く。古泉の靴先を見ていたはずの視線は、いつのまにか彼の顔へ移動されていた。重なった視線は、そのまま粘膜をつきやぶり、水晶体をおかしながら、彼の脳へと届く。侵食された脳内で答えを探しながら、古泉はハルヒへと視線を送る。彼女の瞳に彼は揺れながらも存在しているが、届いているかはわからない。
「みたことがある、だと語弊があるわね。正確には、体感したことがある?」
「体感、ですか」
「だって、世界のおわりなんて、本当は気がつけないものじゃないかしら」
世界のおわり、が何を意味するのだろうか。古泉は考えをめぐらせる。手をのばし、何かに触れようとする。ふわふわと、浮いているような感覚で。それでも結局、彼はハルヒがいちばんのぞむ答えをみつけられずに、当たり障りのない返答しかできないのだ。
「涼宮さんは、経験されたことがあるのでしょうか」
「‥わたしは、あるわ」
ハルヒの目がゆっくり閉じられていく。細長い睫が、彼女の頬に薄く影をおとす。揺れる瞼の裏で、彼女は何をみるのだろうか。古泉は無表情のまま彼女を見つめる。
「すーん、とね、するの。ゆっくりと、さらさらの砂をすくうときのように、静かに終わっていくのよ。それはきっと、本当は幸福なことなのだと思う。けれど私はとてつもなくおそろしくなってまるで発狂しそうになってしまうの。冷静におしまいを捉える理性が満ち足りすぎてしまって、洪水のように溢れちゃって。進まなくっちゃいけないのに、私はそこから動きたくないのよ。とっても、こわいものだわ」
再び開かれたハルヒの目に、古泉がうつることはなかった。どこか途方にくれたように、地面をみつめている。
いまこの場で、ゆっくりと世界が終わっているのだと古泉は思った。少女はおびえている。おとなに、なってしまうことに。ハルヒは戸惑いながら、とめることができない破壊活動を続けている。少女の成長は、世界でいちばん美しいそれなのだ。そうであるならば、自分は専ら生贄なのだろうと、彼はおのれに与えられた役割を理解する。革命はいつだって、血を必要としているのだ。彼女が望むのならば、世界が必要とするならば。古泉は微笑んで、自らの首をさしだす。
「それは、とてもやさしいことのように、僕は感じます」
「‥そうかもしれないわね」
ベンチについていた指をそっと動かし、自分の膝の上で交差させる。暗闇のなかで白くつやつやと輝く細長い指は、少女のそれではなくなっていた。
古泉は、脱皮するハルヒの姿を想像する。蛇のようにゆっくりと、なまめかしく、徐々に自らを脱いでいく。新たに空気にふれた肌は、じっとりと濡れていて、それは彼を神の領域へと誘う。その肌を、彼は自らの赤い血で汚すのだ。古泉の腕を切り裂いたナイフには、きらきらと輝くおおきな宝石がうめられていて、それはきっとハルヒの眼球なのだと彼はおもう。ナイフはやがて、古泉の心臓をゆっくり突き刺してゆく。痛みと愛情と憎しみが混ざり合って、そして血は流される。それはハルヒを目覚めさせ、女は革命を遂行させるのだ。

「孤独はとてもこわいわ」
「確かにあなたは孤独かもしれません。けれどそれは、ほんとうにひとりではないから、孤独だと感じているんですよ」
自分の想像を悟られないように、古泉は微笑んだ。もしかしたら彼女はすべてわかってしまっているのかもしれないが、それならそれでいいのだと思った。ハルヒの耳をふさごうと、手をのばしかけて、けれど彼はすぐにやめてしまう。それは、生贄の少年がするべきことではないのだ。彼はただ、自らの心臓が彼女に食されるのを、待っている。その瞬間に、古泉ははじめて、涼宮ハルヒと世界のおわりにふれることができるのだ。本望だと、彼はその革命の日を、待つ。




スーパーノヴァ
(古泉とハルヒ/20080505)