ちゃぷん、という音が風呂のなかに響き渡る。キョンは背中ごしにその音をきいた。靴下は脱衣所で脱ぎ捨て、すそをめくり、湯船の淵に腰掛けている。手には雑誌がもたれていて、それは風呂内の湿気でふんにゃりとしていた。街頭で配布しているフリーペーパーなので、そんなことは気にしない。こういうこと、をするようになってから、彼はそれらを手にすることが増えた。しかし、風呂でよむ雑誌―経済情報だったり、女性をくどくテクニックだったり、まちのオススメスポットだったり―は、彼にとって記号の羅列でしかなりえなかった。頭に全く入ってこないのだ。水のように、するすると、抜け落ちて、消えていってしまう。
再び、ちゃぷん、という、やさしい水の音が響く。キョンは目線を雑誌から外し、湯船につかる古泉にうつした。水のなかでは、ゆらゆらと古泉の身体が歪んでいる。手をのばしても、届かない気がした。古泉は、手で器をつくり、みずをすくったり流したりしている。ぼんやりと、あそぶ彼は、まぎれもなく、こどもなのだ。
古泉が風呂のなかでぼんやりと、長時間過ごしているのを目の当たりにしてから、キョンは彼の風呂に付き合うようになった。古泉が湯船につかっている間、キョンは話すでもなく、淵に腰掛けている。つまりそれは監視なのだった。ほおっておくと、風呂の熱と同じように、冷たくなっているかもしれない。もっと単純に、眠りながら息をひきとるかもしれない。彼はおそろしいのだ。古泉が、死ぬことが。
一方の古泉は、キョンの行動に、はあ、と奇怪な声を出しながらも、すっかり甘えてしまっている。たまに、ちらり、と彼を心配そうに見るキョンのことを、かわいいなあ、と思う。やさしくて、ずるい人だ、と思う。甘えてしまっている自分が、最低だ、とも思う。
この、奇妙な時間は、いつだってゆっくりとすぎていった。二人にしか共有できない、湿り気のある空気が、やさしく、少年たちを包んでいる。水の音と、雑誌をめくる音。世界には、この狭い風呂場しか存在していないような気がした。世界の気配は、全て遮断されている。ふたりしか、存在していない。
古泉が顔をあげ、キョンと視線を通わせる。にこり、と微笑むことをしない古泉は、不気味で、美しい。指を頬にはわせると、少しだけあたたかかった。そのまま指を水のなかへともぐらせる。ぬるくなりはじめているそれをあたためようと、キョンは追い焚きボタンへ手をのばした。古泉はその腕をとめるように、ゆっくりと、口を開く。
「放火、ですか」
「え、あ、ああ。これか。そう、みたいだな」
「とても真赤だ」
古泉は手を水面から突き出し、キョンの持つ雑誌へと手をのばした。放火事件が多発していると伝える記事には、燃えさかる家の写真が添えてある。烈しく、赤い、炎。あっという間に全てを飲み込んでしまうのだろう。
古泉はぼんやりと写真を眺めている。まずいな、とキョンは思った。古泉がこの場で口を開くとき、彼は大抵ひどく落ち込んでいるのだ。憂鬱で、自虐的で、それでいて、キョンに甘える自分に気がついたとき、驚き、とてつもなく途方にくれてしまう。
「人間が世界をかえようとするときに頼るのは、いつだって、火なんです」
古泉は写真を濡れた指でなぞった。火は、消えることなどなく、ふにゃり、と、歪むだけだ。炎はじんわり、薄黒くなっていく。ぽつり、と呟くように話す古泉をとめなければ、とキョンはどこかで考えている。こいずみ。そう口を開くが、彼をとめることができない。
「でも、神が世界をかえるのに使うのは、水なんですよ」
勝てるはずがないんです、最初から。古泉は自嘲的に微笑む。笑うな、わらうな、わらうな。キョンは思うが口に出さないでいる。目をそらしていた古泉が、ゆっくり、でも確かに、キョンの目をとらえた。じっとりと、みつめる彼は、少年になにをいってほしいのだろうか。
彼はいつも、妙な例えをして、キョンに何かを伝えようとする。疲れてるんだな。口には出さないがキョンはそれを、古泉の頭をやさしくなでることで伝えようとした。古泉に伝わっているかは、わからない。
キョンは知っている。古泉はいつか、あのかいぶつのなかでしにたいと思っているのだ。
「ほんとうに馬鹿だな、お前は」
「…すみません、少し、冷静になってきました」
「もうあがるぞ。まったく、何時間はいってると思ってんだ」
古泉の頬を軽くつねったあと、キョンは立ち上がる。水中で揺れる白いからだを、死体のようだと思った。頭に浮かんだ自らの考えを打ち消すように、水中に手をいれた。水面が、ぐにゃりと歪む。その手で、じいっと、水面をみつめるままだった古泉を起き上がらせ、あたたかいシャワーを浴びせた。お湯をとめ、タオルをとり、頭のてっぺんから、やさしく、包んでいく。古泉はぼんやりと、キョンの動作を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「最近、甘えすぎていますね」
古泉の目はキョンに何を語りかけているのか。キョンは、もう、いてもたってもいられなくなってしまって、濡れたままの古泉をぎゅうと抱き寄せた。
「…濡れてしまいますよ」
「何を今更」
泣くな、泣くな、なくな。キョンは古泉を抱き寄せながら、強く言い聞かせる。自分が泣いてはだめなのだ。今はとにかく、このうつくしい少年に、こうすることで生きていてほしいと伝えなくては。とことんやさしく、甘やかしてやる。それこそ、古泉が死にたくなってしまうくらい。(でも、ほんとうに死んではだめだ)
「こいずみー」
「なんでしょう」
「すきだよ」
どうすれば気持ちは伝わるのだろうか。愛しいのだ、とても、とても。
いまだ何も知らない、おさない少年たちは、せまい風呂場で途方にくれている。ドアを開けば、ふたりには現実が待っている。かなしくて、そしてやさしい世界が。




バスタブと死体
(キョン古/20080329)