あ、泣きそうだ。
胸の中にこみあげてくる感情が突然 古泉一樹を襲った。嘔吐するときに近い。ぐらり、と世界が揺れて立っているのがつらくなる。瞳を閉じると暗闇の中で何かが自分を嘲笑しているような錯覚を覚えた。くすくす、馬鹿じゃないの、おかしい子。そのような言葉たちが彼をひどくせめたてる。その反面、そんな自分を冷静にみつめる別の自分が存在している。つまるところ、彼はかなしくて、せつなくて、くるしくて、とにかく泣きそうなのだ。ぎゅう、と手を強く握る。果たしてこれがどの程度の効果を持つのかはさっぱりわからない。藁にも縋る思い、というのはつまりこういうことなのだろう。
瞼の裏では涼宮ハルヒの眩しい笑顔すらも見あたらなかった。そこにはただの暗闇しか存在していないのだ。ぱちぱち、とはじけるような光が、古泉の脳内を刺激する。おちつくどころか、更にかなしくなってしまう。ぼんやりと、しかし確実に、何かが彼を蝕み、殺そうとしている。
「何か」口をうっすらとひらくと、口内で準備されていた言葉がそっと姿をあらわす。隣でぼけえと立っていたであろうキョンがこちらをふりむく気配は感じたが、古泉はそんなのお構いなしに言葉を続けた。「何でもいいので何かを話してはもらえませんか」じんわり、と心が歪み始める。少し後悔した。頼るべきではなかったのかもしれない。彼の目の前で泣くのと、どちらが良かったのかぼんやりと考えている。
「具合でも悪いのか」
「いえ、そういうわけではないのですが」
にこりと笑えてはいるだろうか。きっとキョンはまじまじと彼の顔をみているのだろう。けれど、目を瞑っている彼にはそれもわからない。瞼の裏でぱちぱちとはじけていた光は、徐々にゆがみだし、ゆらゆらと線をつくっていく。波のようだ。きっと海なのだろう。彼はまぶたの裏に、彼しか持ち得ない世界をつくりはじめている。海から、いきものたちはうまれ、そしていつか海へかえってゆく。
「…本当に、お前は中途半端な甘えしかできないな」
「すみません」
「悪いが、俺はそんなにいい奴じゃないんだ」
古泉はそのとき、ああ、もう一生目などあけられない、と思う。キョンの言葉は彼を絶望的にさせる一方で、当然なのだと戒めた。人になど頼ってはいけなかった。そもそも、泣きそうになっている自分が悪いのだ。その感情は、さらに古泉を追い詰める。先ほどより、世界はゆがみはじめ、彼だけの世界ですらくずれはじめてしまう。
ぎゅう、と握られっぱなしの手に何かが触れる。それがキョンの手であると気がつくのには少し時間を要したが、それに気がついても古泉はまだ目をあけられない。キョンのごつごつとした少年らしい手は、ゆっくりと、そして不器用に古泉の手を包む。それ以上は何もしないし言わない。
「…中途半端な甘えは、いちばんの甘えですよね」
「さあな。俺は知らん」
古泉はまだ目を開けられないでいる。彼の世界は、とうとう暗闇になってしまった。おかしいな、と古泉は思う。古泉は泣きたくない。キョンは古泉に泣いてほしい。お互いもとめているものがあまりに違いすぎるのだ。それはひどく滑稽で、残酷で、すこしだけ、やさしい。
キョンは古泉のかわりに世界を見ているのだろうか。それは目を瞑っている古泉にはわからないし、キョン自身にもわからないだろう。けれどそれはそれでいいのだと古泉は思う。世界には、知らないままでいたほうがいいことが、あまりにも多すぎるのだ。




さよなら世界
(キョン古/20080226)