朝比奈みくるは、ただ呆然としていた。誰もいない部室でいつもの衣装に着替え、定位置に腰掛ける。たまりにたまってしまった課題や涼宮ハルヒに関しての報告書たち。気がつけば、いつの間にか積み重なってしまった。それらのことを考えると、みくるはとにかく、唖然としてしまうのだ。何もしないのではなく、何をしていいのかわからない。とりあえず、紙に全ての課題とその期日を書き出してみるものの、結局それをぼんやりと眺めて、途方にくれてしまうだけなのだった。じんわり、と涙があふれそうになるが、ここで泣いても何もかわらないことは、みくるが一番わかっている。
長門しか使用していない本棚の前へむかう。適当に本をとってパラパラとめくるが、何が書いてあるのかいまいちわからなかった。どうして私はこんなにだめなのだろう。みくるは思う。ふと、つやつやとした黄緑の背表紙の本を手に取ってみると、以前読もうと思っていた本だった。綺麗な蝶と美しい小鹿の表紙をそっとなでる。前に読もうとしたときは長門にはじいっと見つめられ、キョンには「朝比奈さん、…それ読むんですか?」と驚かれ、古泉には「確かに、ザルテンのバンビは我々が通常イメージしているものと違いますからね。とても美しいですが、朝比奈さんには似合わないように僕も思います」とやんわりとめられた。それが皆の優しさだということは、よくわかっていた。けれども私はそうやって、いつでもおいていかれてしまうのだ。
しかし、今はそれをとめる人間はどこにもいない。みくるは決心したように本を手にとり、イスに腰掛けた。先ほどかいたメモのことは考えないようにしてページをめくる。古くて、優しい本のかおりがした。

バタン、という大きな音とともに部室に入ってきたのは涼宮ハルヒだった。みくるは驚いて本を閉じてしまう。ハルヒはみくるが部室にいることに心底意外そうな顔をした。
「あら、いたのみくるちゃん。授業は?」
「今日は5限で終わりなんです。涼宮さんは?」
「私は授業さぼったのよ。団長は庶務諸々忙しいからね」
ハルヒがみくるに笑いかける。みくるもハルヒに微笑みかえす。「今、お茶いれますね」やかんに水をいれ、コンロに火をつけた。ハルヒの笑顔は、みくるをひどく幸福にさせる。

「何これ。何のメモ?」
「…あっ、えっと…き、気にしないでください」
「気にしないでってあなた、もしかしてこれ全部溜まっているの?期日すぎてるものもあるじゃない」
ハルヒはみくるが先ほどかいたメモを手にしていた。みくるは慌ててハルヒの元へむかう。ハルヒの眉間にしわがよっている。どうしよう、と慌てながらも、みくるは困ったようにハルヒを見つめた。実のところ、彼女は本当にまいってしまっているのだ。
「全くもう…どうしたらここまでためられるのか聞きたいわ」
「ひええ…すみません、気がついたらこんなになっていたんです…」
「みくるちゃんらしいというかなんというか…。いい?このレポートは教師がうるさいからとりあえず今日やっちゃいなさい。こっちは、まあ、甘いから先延ばしでいいでしょう。音楽の課題なんて…みくるちゃんには難しいわね…でもこれは土曜にゆっくりやればいいわ。焦っちゃ駄目よ。単語テストは明日?今日の夜15分くらい集中すれば大丈夫ね」
ハルヒは声に出しながら、みくるがメモした紙にどんどん指示を書き込んでいく。みくるはそれをただ呆然と見つめていた。てっきり、怒られるものだと思い込んでいたのだ。その場でちらりと見ただけなのに、あまりに的確に指示を出せてしまう。涼宮ハルヒの持つものを、みくるはまたひとつ、実感することになった。
「で、この提出書類って何?」
はっと気がつくとハルヒは提出書類、という文字を指でさししめし、みくるをみつめている。まさか、涼宮さんの観察報告書です、などといえるはずもなく、みくるはひどく慌ててしまう。
「え、えっと…その…その、書類っていうのは…」
「書類っていうのは?」
「だから…あの…その、ですね…あ、あれです。し、進路の…希望の、書類です」
みくるが必死にそう言い訳すると、ハルヒの顔はとてもかなしそうなものになる。彼女にしては適切ないいわけに安堵したのもつかの間、ほええ、とみくるはその表情に魅せられてしまった。しばらくハルヒは黙ったまま、自分の指先の文字を見つめる。「そう」うっすら開かれた口から、細い声でハルヒは返答をする。「もう、そんな時期なの」いつかくる別れが、急に現実味を帯びて、ふたりを優しく包み込んだ。
「…これは、しっかり、自分で決めなきゃね」
ハルヒが笑ったので、みくるもそれに慌てて微笑み返す。微笑み返さなくてはいけない気がしたのだ。ふつふつ、というお湯が沸く音がしたので、みくるはそちらへ向かった。ちらりとハルヒのことを盗み見ると、彼女はじっと文字を見つめたままだった。嘘はつくものではない、とみくるは後悔してしまう。ハルヒのため(という名目で、結局は自分のためだということに、みくるは気がついていない)についた嘘が、彼女をかなしませてしまった。胸が、すうん、としてしまう。やさしくて、さみしい嘘たち。嘘たちは積み重なると何になるのだろうか。嘘のままかもしれないし、真実になるのかもしれない。
ポットにお湯をそそぐ。今日はローズヒップティーにしよう、とぼんやりと思う。ハルヒには、薔薇がよく似合うのだ。

「みくるちゃんザルテンのバンビなんて読んでるの」
どきり、として、みくるはハルヒを見ることができない。そわそわして、カップが音をたててしまった。ざわり、と心が騒ぎ始める。ポットから紅茶を注ぎ、自らを落ち着かせ、そしてみくるはゆっくりと笑顔をつくる。
「そうなんです。前に読もうと思ったんですけど、みんなに止められてしまって。やっぱり、私が読むのはおかしいですよね」
何がおかしいのかみくるにはさっぱりわからなかったが、皆がそういうのだからきっとそうなのだろう。ハルヒがぱらぱら、と本をめくっている。みくるはなんだか、もうすっかりこの場から消えたくなってしまって、微笑むことしかできなかった。
「そう?確かにひどく残酷な描写でみくるちゃんには似合わないと思うけれど、私はそれを美しいと思うし、いいと思うわ。きっとこの本は、みくるちゃんを豊かにしてくれるわよ」
その言葉は、みくるをひどく安心させ、そしてとてもとてもかなしくさせた。ハルヒの言葉は世界をそっと変える。誰も気がつかないようなさりげなさで、でも確かに、全く別物にしてしまうのだ。それはとてもおそろしいことで、泣きたくなるほどやさしいことだとみくるは思った。私たちは毎日、彼女がそっと世界をかえる光景を目撃している。それは考えられないほど幸福なものだった。
「涼宮さん、なんだか、お姉さんみたいです」
「あらまあ。私も、ずいぶんとかわいい年上の妹を持ったものだわ」
嘘の姉妹は何を生むのだろうか。ハルヒもみくるもそれを知らないが、そんなこと、どうだってよかったのだ。永遠に続けばいい、と思いながらも、それが永遠ではないということを、彼女たちはどこかで知っていた。知っていたのだ。




やさしい嘘たち
(みくるとハルヒ/20080211)