チェロの音色を聴くと、朝比奈みくるは古泉一樹のことを思い浮かべてしまう。 みくるがはじめてチェロという楽器の演奏を聴いたのは、音楽の授業だった。クラスメイトはほとんど眠ってしまっていて、そこではチェロの音色と彼女だけが存在する。今までその楽器を博物館や本の中でしか見たことがなかったみくるにとって、非常に新鮮なものだった。低音で深く響くその音色が、みくるの全身を刺激する。彼女はうっとりしながら、教科書に載っているチェロの奏者をみつめた。初老で怒ると少し怖そうな、外国人の演奏者に彼女は胸を盗まれてしまう。 何故、古泉が思い浮かぶのか明確にはわからない。ただ単純に似合うと思ったのだ。椅子に腰掛け、チェロを左右の足の間に構え、それを奏でる古泉を、みくるは美しいと思う。教科書の中の、老人のように。 「チェロですか?」 古泉はみくるから紅茶をうけとる。そうです、チェロという楽器をひいていたことはありませんか?彼女は再度彼にたずねた。古泉は少し考え込むような表情を見せた後に紅茶を口に運ぶ。その一連の動作を、みくるはまるでつくりもののようだと思った。あまりに美しくできすぎている。それは彼女をひどく淋しくさせた。 「残念ですが、僕はチェロを習っていたことはありません。ですので、ひいたこともないですし、おそらく演奏はできないでしょう」 「そうでしたか」 みくるは少し残念に思ったが、にっこり微笑んで自らも椅子に腰掛けた。 「変なことをきいてしまって、ごめんなさい」 古泉はそれに微笑で返事とし、2人の会話はそれで途切れた。部室には古泉がひとりですすめるチェスボードの音がゆっくりと響く。みくるの頭の中には、先ほどの授業で聞いた曲が優しく流れていて、心地がよい。この静かな時間が、古泉もみくるも嫌いではなく、むしろ好んでいる方であったのだが、みくるはゆっくりと口を開き、会話を再開させる。 「授業で、チェロ、の演奏を聴いたんです」 古泉はチェスの手を休め、みくるをみつめる。薄い微笑みがゆっくりと彼女をとらえた。次の言葉を待っているのが、みくるにも伝わる。彼女は、自らがいれた紅茶を一口飲み、(まるで何かを決意するかのように)再び言葉を発した。 「それをきいていたら、なんとなく、古泉くんが思い浮かんだの」 そう言った途端、みくるはそれが、まるで愛の告白のような恥ずべきものであるように感じてしまい、慌てて言い訳がましい言葉を付け足した。そして目の前の紅茶を一気に飲み干し、新しくいれなおそうと立ち上がる。古泉の笑顔は崩れることがない。 「朝比奈さんにそう言っていただけると光栄です。チェロは美しいですから」 首を傾け、古泉は微笑む。みくるは、古泉のこういうやさしさが好きだった。やさしい、というのは、世界がゆるしてくれるような感じ。そして、彼は美しい。 それからふたりは何も話さない。みくるは編み物をはじめ、古泉はチェスの駒をすすめている。こうしていると世界は平和だ。 古泉はふと、みくるに問う。その問いに彼女が答えられないことを彼は理解していたが、それはあまりにもすらりと口からでてきた。なぜそれをあえて古泉が尋ねたのか、彼自身にもわからない。 「チェロは、朝比奈さんの時代でも残っていますか?」 「ごめんなさい、それは、」 「禁則事項、でしたか」 すみませんでした、そうかなとは思ったのですが。古泉は笑って言うがいつもの笑顔ではない。ふう、とどこか遠くを見るようにためいきをつく。何か、別の答えを期待していたのかどうか、誰も古泉には問わない。 みくるはどこかで、禁則事項に感謝してしまう。古泉に、チェロは博物館でしかみれない、というのは伝えたくなかった。みくるは博物館に展示されている古泉を想像する。何と説明されるのだろうか。古泉一樹。端正な顔立ちの少年。超能力者の項目はあるかもしれないし、ないかもしれない。美しいけれど、それはみくるを すうん とかなしくさせる。透明な硝子で隔たれた彼は、それでも笑っているだろうか。みくるが、ぺたり、とその硝子にふれたとき、彼女はその冷たさにぞっとするのだろう。 今日は想像ばかりしている、とみくるは思った。頭の中には、授業で聞いたチェロの音色が流れ続けている。 支配 (みくると古泉/20080102) |