水中から腕をのばし、濡れた自らの肌を古泉一樹はみつめた。まるで自分のものではないようなそれに、彼は薄い親しみを感じている。風呂の中の液体はすでに冷たくなっていて、寒い、と思うが古泉は水中から抜け出そうとしない。彼は凍える身体を放置する。 風呂に入ってどのくらい時間がたったのだろうか。時間の感覚などとうになくなっている。はじめは冷えた手足を溶かすような熱さだった湯も、次第に熱を失い、今ではすっかり冷たくなってしまった。この現象をまるで死のようだと思ったのはいつだったのだろう。ゆっくりと、こちらがあがこうがぼおっとしていようが、冷たくなってしまう。それはまさしく死そのものであった。この液体は、すでに死んでいる。そして古泉は、その液体に包まれている。あさましいほど烈しい死の体温を、彼は自分の肌のきわめて近くに感じた。風呂の湯という液体がいつ死を迎えたのか、定義づけた彼にもわからない。冷たいと感じた瞬間かもしれないし、最初から死んでいたのかもしれない。 死ぬときにだんだんと冷たくなっていくのは、風呂の湯も人間も同じだ。自分もいつか冷たくなるのだろう。涼宮ハルヒも、そして彼も。 悪趣味だ、と古泉は自嘲気味に笑う。目を閉じて、口元を水中に潜らせた。ぷくぷく、と控えめに泡がのぼっていく。死の温度が彼を優しくとりかこんだ。このまま死んでしまえばいいのに、と思う。だって、すでに身体はこんなに冷え切っているんだから。 「何してるんだお前」 その瞬間、音もなく、世界が壊される。古泉が目を開きドアの方を見ると、いつも以上に眉間に皺をよせる男が、彼を見下ろしていた。世界に色が戻る。死の匂いは一気に消え去り、そこには、すでに冷たくなった風呂と、ただ寒くて凍えるだけの古泉が残されてしまう。 「…それはこっちのセリフですよ。あなたこそ人の家で何をしているのですか」 「お前 何時間 風呂入ってんだよ。女じゃあるまいし、気持ち悪いぞ」 そう言うと、キョンは靴下を脱ぎ、洗い場に足を踏み入れる。湯船の栓を抜いてから、古泉の腕をひいた。風呂の水に手が触れたとき、キョンは一瞬だけ動きをとめたが、何も言わずそのまま古泉を起き上がらせる。蛇口をひねり、洗い場へ立たせた古泉に、シャワーを浴びせた。何をしているのだろうか、と思いながら、古泉はただ従うことしかできない。 「あついです」 「自業自得だ」 古泉がキョンに尋ねるところによれば、 「電話しても一向に出ないから、また機関とやらのアルバイトかと思って、面倒だから直接お前の家に向かったんだが、何度かけても相変わらず電話にはでない。仕方がないから部屋の前で待っていたが試しにとドアノブをひねるといとも簡単に開くじゃないか。部屋に入ってみればどうやらお前は俺の電話を散々無視し風呂に入っているらしい。心の広い俺はまあ待ってやろうと思い持参した雑誌をひろげてみたはいいが、いつまで待ってもお前は風呂場から出てこない。それでこれはもしかして死んでいるのではと思ってふみこんだ、というわけだ」 と言う。訊ねたいことは多々あったが、すっかり疲労困憊してしまった古泉は、そうでしたか、とだけ返事をした。台所から ふつふつ という音が聞こえる。どうやら、湯を沸かしているらしい。古泉はベッドの上でその音を聞いた。 キョンからすでに冷たくなった缶コーヒーを渡され、2人でそれを飲む。口の中を潤してゆく冷たい―おそらく数時間前まではあたたかかった―液体から死の匂いはしなかった。古泉は壁にかけられた時計を眺める。午前3時。自分が果たして何時間風呂に入っていたのかと数えようとしたが、結局やめてしまった。彼は何時から待っていたのだろう。古泉はキョンへ目を向ける。台所からの音は彼にも聞こえているはずだが、雑誌に視線を落としたまま、一向に立ち上がろうとはしない。ふつふつふつ。火をとめ、茶をいれるのは自分の役割なのだろうか。彼は何故 古泉を訪ねたのか、未だに明かしてはいない。ずるい人だと、古泉は思う。 熱に溺れる (キョンと古泉/20080102) |