一週間の現世任務から戻った綾瀬川弓親は首に手をあてポキポキと音を鳴らす。それを聞いた班目一角は明らかに不快そうな顔で弓親を見た。どんな相手でも笑いながら斬る一角だが、この音は嫌いなのだ。一角いわく「まじで折れたのかと思った」そうだ。全く、十一番隊の三席が何を言ってるんだか。弓親はそう思った。
一週間ほどの任務なんてよくあることだ。面倒だけど、大変ではない。むしろ大変なのはその後。一週間分ためこまれた書類に目を通すこと。弓親は何よりこれが面倒で嫌だった。普通、三席、ましてや五席に回される書類なんてほとんど無いはずなのだが、十一番隊は違う。基本的にデスクワークは三席と五席の役目。あの隊長や副隊長にデスクワークをしろ、という方が無理な話だ。三席と五席、と言えどどちらかといえば一角も隊長や副隊長に近い。というわけで、仕事はほとんど五席――つまり弓親に回されるのだった。
あーあ、面倒だ。弓親はそう呟いて腕を伸ばした。突然の独り言に一角は少し驚いたようだったが、何も言わなかった。お互い疲れているし、今日は早く眠りたい。書類に目を通すのは、風呂に入って、一眠りしてからでもいいだろう。隊舎に近くなってそう考えた弓親の耳に、悲鳴とも思えるほどの泣き声が入り込んできた。弓親と一角は目を合わせる。どうやら、山積みにされているであろう書類の他にも面倒が起こったらしい。二人はため息をついて帰路を急いだ。あの泣き声は、草鹿やちるのものだ。

弓親と一角が執務室に入ると、拳をぎゅっと握って泣きわめくやちると、おろおろしながらやちるのことを慰める下官がいた。その下官の男は弓親と一角を見つけると「お疲れ様です一角さん弓親さん」と困ったように、そして安心したように背筋を伸ばした。

「何かあったの?」
「それが…副隊長の手鏡が割れてしまって…」

ぺたりと床に座りこんだやちるの目の前には、割れた鏡が散乱していた。青や紫などの石に囲まれてできている上質な鏡で、確か十三番隊の浮竹隊長からやちるがもらったものだと弓親は記憶している。あの人は骨董品やら何やらを蔵にたくさん所蔵していて、それをよく十一番隊にも分けてくれる。どんなに高価で貴重なものでも、この隊にくるとただのガラクタになってしまうのが少し残念だが、浮竹の趣味には弓親も一目置いていた。今回、浮竹がやちるにあげたという鏡も、弓親は好きだった。弓親だけではない。やちるもひどく気に入っていて、どんなときでも持ち歩いていた。
一角の大きなため息がひびく。くだらない。そう言う顔でやちるのことを見ている。やちるも顔をあげて一角を見るが、すぐに顔をそらしてまたぐすぐすと泣きだしてしまった。「俺は隊長のとこに報告してくるからあとはよろしくな」と、一角は背を向けて執務室から出ていった。弓親が下官にも自分の仕事に戻るように告げると、彼はよろしくお願いします、と言って部屋を後にする。執務室には二人きりだ。
相も変わらずやちるは泣きやまない。確かに以前から泣くこともあったが、これほどまでだったろうか。そしてこんなにききわけのない子だっただろうか。弓親はそう感じたが、それは今回の場合、自分に疲労がたまっていて、さらに終わりの見えない書類もたまっていて、同僚は呆れてどこかへ消えてしまったという状況のせいかもしれないなと思った。

「副隊長」

泣かないでください、と言って弓親は桃色の髪を撫でる。さらりさらりと流れ落ちてくような髪。一週間の任務を終わらせてきたばかりの自分とは随分違う。そう思うと弓親は苦笑せざるをえなかった。

「また浮竹隊長にいただきましょう?」
「…ちがうもん」

やちるはうつむいたままそう返す。やちるの返事に弓親は少し疑問を感じたが、気にしないで次へ飛ばした。彼女を理解することなんてこの先何年かかっても不可能だろうし、何より今はそんなことを気にしていたら話は先に進まない。一刻もはやくこの話を片付けて風呂に入りたいのだ。

「そしたら阿近さんあたりに安く直してもらってきますから。阿近さんなら壊れててもすぐに元通りに…」
「壊れてないもん!」

やちるがあまりにムキになって大きな声を出すので、そして壊れた鏡を目の前にしながらも壊れていないと言い張るので、弓親は目を丸くさせて驚いた。それでも、下を向きながらやはり顔をあげないやちるを見て、なんとなくではあるが、そういうことか、と納得した。やちるが泣いているのは、鏡が壊れたからではない。多分先ほどの下官が「割れちゃいましたね」などと何気なく言ったのだろう。やちるはそれに対して大声で泣きながら抗議をしたのである。
弓親は思った。やちるのいうことは、嘘と言うよりは願望で、願望と言うよりは夢である。しかしそれは現実とは違う次元で確かに、鏡は厳然と存在しているのだ。

「…そうですね副隊長。僕が間違えてました」

やちるが弓親を見上げると、彼はいつも通りの笑みを浮かべている。弓親はそのままやちるの頭を優しく撫でた。そのまま弓親は、何回見てもやはり割れているようにしか見えないその鏡の破片をそっと拾う。やちるはその弓親の動作をひとつひとつ目に焼きこむようにして見つめていた。

「…弓ちー」
「何ですか?」
「ごめんね」

弓親は鏡を机の上に置いたあと、「何がですか?」と微笑んだ。やちるは少し考え込むように黙った後に「何でもない」と言って、微笑み返す。
彼女の世界は、僕には壊せない。弓親は鏡の破片で切ってしまった血の流れる指を、そっと後ろに隠した。







(I can't say)
弓親と一角とやちる
2006.3.13
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やちるは、本当は鏡が割れていることもわかっているし、みんなを困らせていることもわかっている上であーやって泣き散らしてるんだと思います。だから、自分の言っていることが理解されないことだってわかってる。そこでいきなり相手に理解されちゃうと今度はびっくりしてしまうんじゃないかなー。みたいな。あれ、何が言いたいんだこれ。
やちるは、十一番のみんなが思ってるよりも子供じゃないと思います。
それ以前の問題として、やちるは泣かないような気もしなくはないです。