ロックオンはひゅうひゅう、とすきま風がとおるような奇妙な音をたてながら、小さく呼吸している。

ああ、これは彼の死の瞬間なのだと、ティエリアは瞬時に悟った。ロックオン、ロックオン、と大声で呼びかけるが、それに彼が答えることは、とうとうないのだった。胃から口へと、吐き気にも似た感情がせまりきている。目からはどんどんと涙があふれ、それは彼の頬に長い運河をつくりだしていった。泣いている場合ではないとわかっているけれど、しかし彼はそれをとめるすべを知らない。混迷しあう情報たちのなかで、最期のときが近づいているということだけ、ティエリアはつかみとってしまっている。
だらんと垂れさがったロックオンの右手をとり、あわてて脈を確かめるけれど、それは今にも消えてしまいそうな、本当に本当に弱い音だった。死がどんどんせまりきていることを、ティエリアは身体中で感じていた。手が、足が震え、何をどうしていいのかわからない。だんだんと荒くなるティエリアの呼吸と反比例するように、男のそれは耳を近付けないと確認できないほど、どんどんと弱々しいものへかたちをかえていく。ロックオンの頬の上におちたティエリアの涙が、すうと流れていく。けれど彼はそれにまったく反応をしめさないのであった。おいおいと笑うことも、ティエリアをそっとなでることも、何もしない。これが無なのだ。そして、これが死なのだ。圧倒的な暴力に、少年は対抗することができない。それはあざ笑うようにすっとティエリアをとおりぬけ、薄く微笑みながらロックオンへと口づけをはじめる。
震える指にかすかながらに伝わってくる脈の間隔が、どんどんと広がり、音をひそめていった。その時はいよいよくるのだと、そう思ったティエリアはむりやり男のパイロットスーツを脱がしはじめる。震え続ける手を叱咤しながら、胸元をひらき、インナーをめくりあげ、その白い肌を露呈させる。ティエリアの白さとは種類の異なる、種族による違いの眩しい白さにいつものような神々しさはなく、まるでつるつるの無機物のようなのだ。ここから、彼の命が放出されてしまう。ティエリアはあわててロックオンの胸へ自らの耳をあてた。そこはまだあたたかく、やさしい温度は彼をゆっくりと包んでいく。ロックオンがティエリアに与える最後の残酷な愛情だった。どくん、と、そこは、小さく微かながらも、けれど確かに鼓動している。心臓の音。ロックオンの音。彼が生きているという音。その最後の音を看取るため、ティエリアはとまらない嗚咽をおさえようと、ぎゅうと目をつぶる。
最後の音がティエリアの耳に届いたあと、ティエリアは自分の体から何かがすとんと抜け落ちていく感覚におそわれた。
それが彼が体験する本当の無音の世界、空っぽになってしまった世界だ。最後の鼓動のあと、ここに響くものは、何もない。そこには、ティエリア・アーデと、生きることをやめた物体だけがあるのだった。
暴力的な無のなかで、ティエリアは少し前までロックオン・ストラトスだったものから離れられないでいる。





「おそろしい夢でも見たのか?」
部屋に入ってきた途端に、後ろから抱きつくようにして、刹那の背中へ耳をぺたりとくっつけたまま動かないティエリアの細い腕を、やさしくさすりながら、彼はぽつりと、そんなことを呟くのだった。ティエリアは何も答えないまま、何かをさぐり、確かめるようにそのままの体勢でいつづけている。刹那はそれ以上何も尋ねなかった。 どくん、どくん、と、その規則正しく流れる心臓の音は、ティエリアをひどく安心させる反面、再び恐怖へとおとしいれてしまう。にこりと薄く微笑み、彼を異世界へとひきづりこもうとする絶望に逆らうように、ティエリアはぎゅうと、刹那の衣服を握りしめる。そして目をつぶり、その音だけに集中しはじめるのだ。心臓から全身へと血液をはこぶ生きた音。生きとし生けるものにしか許されない、幸福の、崇高な、そして呪縛の音たち。彼は刹那の健全で力強い心臓から、彼のしまった腕、凛々しい顔、かたいふくらはぎや深爪ぎみの親指の先、そして彼のからだを支配する脳へと血液がはこばれていくことを想像する。火傷してしまいそうなほどあつくて、鉄の味がする彼の血液で、自分もみたされてしまえばいいと、半ば自嘲気味に彼は思った。
だけど。けれども、そうやって、彼の心臓も、きちんとしたかたちで動いていたはずなのだ。
その事実は唐突にティエリアをおそい、そして彼をそこへ置きざりにしていってしまう。
「泣きたいのなら泣いても構わない。けれど鼻はかむな」
「・・・君は馬鹿か」
罵倒するよう―けれどその言葉に悪意がこめられていないことを、ふたりはよく知っている―にいったその言葉は、刹那の背中をとおり、ゆっくりと伝わっていった。抱きつく力が少しだけ弱まったことで、気が立っていたティエリアが少しだけ落ち着いたことを知る。ゆっくりと微笑みをつくり、刹那はティエリアの指に自らの指を重ねた。
「俺にできることはあるか?」
「君にできること?」
「なければないで構わない」
刹那はそういうと、重ね合わせた指を、ゆっくりと絡ませはじめる。まるでおびえるこどもに微笑むように、愛しい恋人にそうするように、仲間を鼓舞するように。この宙ぶらりんなやさしさを、ティエリアが求めているのか彼にはわかりかねたが、けれど彼はティエリアの細い指を、ひとつひとつ洗っていくかのように、撫でるのだった。ティエリアは刹那に指を遊ばれながら、しかしぽつりと、願望をつぶやく。
「…君の心臓の音を聞かせてほしいんだ」
小さな声で、ティエリアはまるでこどものようにそう言うのだった。


ティエリアは刹那の上に馬乗りになるようにして跨り、彼の服のジッパーをおろしていく。すぐにあらわになる胸は、健康的にのせられた筋肉と、少しだけ浅黒い肌で構成されていた。そこへ右手をすう、と吸いつけるようにあてていく。冷たいその指は一度だけ刹那の身体を揺らしたが、けれどそれ以降彼からの反応はない。刹那はずっと、ティエリアのことをみつめている。その、大きくて、獰猛で、やさしい、静かな沈黙の瞳で。
どくん、どくんと、力強い震動は指をとおし、ティエリアのからだを犯していった。定期的にならされる揺れは、人間が機能する上でいちばん重要で、そしていちばん美しいものだ。その音に、振動に、すべてにすっかりつかりきってしまうと、彼は刹那の胸へゆっくりと耳をよせた。
ふたりの影がかさなりあい、暗闇のなかで彼らはひとつの物体になっていく。まるでセックスのようだ。汗をかいて、どろどろんに溶け合って、けれどひとつになれないのだと絶望的に思い知ってしまうような、あれによく似ていた。目を閉じたティエリアのまぶたの裏には、パールをこぼしてしまったような宇宙と、彼が生きていたときの笑顔が思い浮かばれる。それを彼は、かなしいことだとも喜ばしいことだとも思わない。それはただ、そこに存在する事実なのだから。
ゆっくりとのばされた刹那の指は、やがてティエリアの背中へとまわされていった。ぽんぽん、と、気持ちをなだめるようにしてたたかれた振動は、やがて彼らふたりの心音にまざりあっていく。どくんどくんどくん。心臓の音。胎動の音。セックスの音。ふたりの音。
暗闇のなかであいまいにふちどられた自らの細い指をながめながら、ティエリアはさきほど見た夢のことを考えていた。
僕はもう大丈夫だ。僕は彼の心臓の音を知っている。彼の、そして僕自身の心臓の音を、生命の音を、健全な音を、知っているのだ。
最後の弔いのために、ティエリアはそっと、自らの指に口づけた。




お通夜
(ティエリアと刹那(とロックオン)/20081209)