その書類をだしおえてしまうと、カタギリにおそいかかってきたのは唐突な眠気だった。彼はすっかり忘れていたのだが、連日の徹夜続きなのだ。それはあまりに暴力的だった。頭のうしろをガツンと鈍器で殴るように襲ってきて、彼がおちていくのを冷静に見守っている。ノートやらメモやらが散らばった机にそのまま顔をぺたりとつけて、カタギリはゆっくりと目を閉じた。今の彼には、場所を移動することはおろか、白衣を脱ぐことも、机の上を片付けることさえも難しい。
眠りにおちていく瞬間を、カタギリは以前から客観的に観察している。瞼の中で目がくるりと上にむかって回転し、にょきにょきと、そこで曖昧な暗闇が漆黒へと成長していく。その成長をひとつひとつ観察しているうちに、彼はいつだって意識を失ってしまうのだった。それは気絶にも近い状況だ。自己の睡眠の観察ということは、ひどく体力を使う。

        *

ポンポンと、右肩をたたかれて、彼はようやく目を覚ますのだった。ぐにゃりと歪む視界のなかで、美しい金髪をした男は、腕を前で組み、あきれたように微笑んでいる。
「そんなところで本格的に寝るとは、関心しないなカタギリ」
眼鏡も外していないじゃないかと、グラハムは自らの目元を指差してそれを伝えた。カタギリは手をはわせ、眼鏡を直しながら少しだけ微笑んでみせる。
「やあグラハム。僕がどのくらい寝ていたのかわかるかい?」
「少なくとも、私がここにきてからゆうに一時間は経過している」
腕時計を見るグラハムを視界に入れながら、カタギリはちらりと壁にかかる時計を見たが結局自分が何時から寝始めたのかわからないので意味がないのであった。先ほどの眠りはあまりに深すぎた。深すぎて、もう何ヶ月も眠っていたような気がするし、まだ目を閉じてから5分もたっていない気もする。本来寝るべき体勢で寝たわけではないので、首が少しだけ痛かった。つん、と筋が伸びてしまったような感覚だ。
うんと軽く背伸びをして、グラハムの方を向く。ありがとうと一言だけ礼を言おうとして、彼は絶句してしまった。グラハムの手にはあまりに大きすぎる花束が持たれていたのだ。
「…それは僕宛てじゃないよね」
「当たり前だ。これは今日これから会う相手に渡すものだよ」
「君は女性に対してそういうキザなことをあまりにナチュラルにやってしまうからね…」
「そうでもないさ」
そういうと、彼は特に気にとめることでもないとでもいう風に肩をすくめた。そして自らの手元の花束をみつめる。白い花びらと、薄くピンクで彩られた丸い花。バラのような小洒落たものもあれば、カタギリが名前を知らないような不思議なかたちをしたものもあった。それをグラハムはソファーの上にそっと置き、自らもその左側に腰掛けた。
散らかったこの部屋で、それは何だか所在をなくしたように浮ききってしまっていた。そわそわとして、呼吸をするのが難しいのかもしれない。これでは植物の寿命も早まりそうだと、カタギリは思う。
「君には花ではなくこれを渡そうと思ってきたんだ。論文を提出しおえたのだろう?」
左手でグラハムが持ち上げたのは、あまりに見慣れすぎた箱だった。オレンジ色に、茶色いリボンのモチーフで描かれた筆記体の店名が印字されている。彼がその箱を軽く左右にふれば、ガサガサ、と中のものが揺れる音がした。
あまりに部屋になじみすぎてて気がつかなかったのだ。カタギリはびっくりしたような表情をして、最終的には感謝の気持ちを述べた。グラハムのさり気ないこういう気遣いに、彼は微笑まざるをえない。
「ありがとう、大好物だ」
「知っているさ」
そう言って彼は、カタギリに彼の好物を手渡した。封をあければ中からはシンプルなプレーンのドーナツのかおりがただよってきて、カタギリは何だか、それだけで幸福な気持ちになってしまうのだった。
「徹夜あけのドーナツなんて、グラハム 君はやっぱり天才だよ」
「天才なんて言葉を軽々しく使うのはナンセンスだな」
グラハムもそこで、こどものように笑うのだった。

        *

グラハムは今頃何をしているのだろう。カタギリは彼が買ってきたドーナツを口に運んだ。待ち合わせと同時くらいに着き、女性に先ほどの花束を贈り、ふたり並んで道を歩くのだろうか。もしかしたら途中で車をひろうかもしれない。ワインで乾杯したあとにたっぷり時間をかけて食事をして、レストランを出た後はゆっくりと海辺を散歩する。そしてそのまま彼の家に女性をあげるかもしれないし、或いはあげないかもしれない。彼が贈った白い花束に微笑みながら顔をうずめる女性は、同じような白い肌とすらりとした体形をしていて、美しいのだろうか。だとしたら、それはグラハムと並べばさぞお似合いなことだろう。ふたりはきっと、誰から見ても幸福そうにみえるはずだ。
それらのことは何だか、ひどく滑稽なことように思えるけれども、やはり同じくおかしいことに、グラハムにはそういうことが何故だかとても似合ってしまうのだと認めざるをえないのだった。
けれどやっぱり僕はドーナツでいいやと、カタギリはいれたてのコーヒーを飲みながらそう思う。




ドーナツの魔法と白い花
(カタギリとグラハム/20081005)
女性とデートするグラハムにものすごく萌えます。