「まだ起きていたんだ」 沙慈の声に、絹江はパソコンのモニターから目を離す。テレビからは微音ながら昨今の情勢が伝えられていて、それは沙慈をひどく憂鬱にさせた。寝起きの、ぼんやりとした心持のまま冷蔵庫へ向かい、水分を口に含む。自分がこうして、水を飲み込む間に、どのくらいのいきものが死をむかえているのだろうか。姉の分の飲料をとりだし、彼は冷蔵庫を閉めた。 「仕事?」 「ええ。もう大忙しで、寝る時間もないわ」 ありがとう、と沙慈が差し出したペットボトルを受け取る。絹江は、弟のこういうやさしさを、とても好いていた。自然に出るそれは、彼女をとても幸福な気持ちにさせる。しかし、同時におそれてもいた。彼は、やさしすぎるのだ。 沙慈は後ろから姉のパソコンを軽くのぞきこんだあと、ソファーに腰掛け、そのままテレビの画面をみつめる。昨日終わったばかりの戦争について、コメンテーターたちがああでもない、こうでもない、と議論をしていた。紛争、内戦、AEU、人革連、ユニオン、そして、ソレスタルビーイング。 「ほんとうに、戦争根絶なんてできるのかなあ、ソレスタルビーイングは」 「さあね。彼らが何を考えているかさっぱり。でも沙慈は、嬉しいんじゃない?本当に戦争がなくなれば」 「まあ…やり方は間違っていると思うけど…結果的にはそうなるよね。っていっても、全然実感とか、そういうの、わかんないんだけどさ」 ふふ、と絹江は笑う。わからないなりに、テレビを見て、一生懸命考えている弟を、彼女はこの世でいちばん愛おしいと思った。 絹江は再びパソコンへと向き合い、沙慈はぼんやりとテレビを眺めている。世界がゆっくりとかわっている(ようで、実際は何もかわっていないのかもしれない。しかし、世の中に不変なものなど、ないのだ)いまこのときを、彼らはこうして、ゆっくり、過ごしている。この部屋だけは、永遠に平和なように感じられた。写真たてからは、父親と母親がふたりに微笑みかけている。 「でも、もしも、戦争というものがなくなって、この世界が平和そのものになったら、姉さんの仕事はなくなっちゃうんだね」 絹江の手がとまる。沙慈はテレビを見つめたままで、それでも彼は、途方にくれてしまっていた。彼女が危惧したどおりだ。やはり彼は、やさしすぎるのだ。 沙慈は知っている。例え戦争がなくなったところで、世界はハッピーエンドにならないということを。 「…そしたら、動物特番でもやるわ。私、犬や猫には好かれやすいのよ」 少しの間のあと、絹江はそう返し、沙慈の隣へ腰掛けた。そのまま姉は、弟の手をそっと、やさしく包み込む。沙慈の、困ったように微笑む視線がいたい。けれど、ここで負けてはいけないのだ。彼女は、つよい、お姉さんなのだから。 「あなたは、ほんとうに、やさしい子」 「そんなんじゃ、ないよ」 「いいえ。私の自慢の弟なんですもの。やさしくないはずがないわ」 絹江はにっこりと微笑んでみせる。この指をとおして、声をとおして、表情を、そして全身をとおして、愛情と、慈しみを、やんわりと伝えるのだ。それが彼女にできる、弟への最大の愛情だった。 それは、姉が弟へ言い聞かせることでもあったし、彼女自身へ言い聞かせていることでもあった。世界は、私達が考えているよりも、やさしくはない。 「だからね、たとえどんなことがあっても、誰も、恨んでは、だめよ」 沙慈の表情がかわる。まるで迷子になってしまったこどものように、絹江を見つめた。彼が口をひらくまえに、絹江は言葉を発する。 「さあ、明日も学校でしょう?もう寝なさい。学生の本分は勉強よ」 沙慈よりも先に絹江は立ち上がり、再びにっこりと笑いかけた。そのまま机の前に戻り、パソコンへと向き合った。テレビからは、何事もなかったかのようにニュースが流れ続けている。沙慈がゆっくりと立ち上がる気配を彼女は感じ取ったが、気にしないふりをして作業へ集中する。「おやすみ姉さん。あんまり、無理しすぎないでね」弟はそう呟いて、部屋を後にした。おやすみ。絹江もそう返す。部屋に存在するいきものは、再び絹江だけになり、彼女はなんだか泣きたくなってしまう。けれど、彼女は泣かないのだ。絶対に。 いつか、世界は姉弟を見捨てるかもしれない。それでも。たとえ、そういうかなしいことが起こってしまったとしても。どうか、この子がかなしむことのないように。いつまでも、やさしい弟でいられるように。彼女は世界へそっと祈りをささげる。 しろい部屋 (絹江と沙慈) 2008.04.14 |